三河煙火の歴史・その3

江戸期までの西三河煙火・尾張の花火
   中部の花火情報館

岡崎周辺の西三河は東三河と同じく花火の発生に係る地域です。しかし文化文政期以後は実に多くの情報がありますが、創始期に関しましては具体的煙火祭りの年代に関する文献はほとんどありません。
西三河の煙火の歴史を探る上では5つの流れが考えられます。

@ 駿府城の家康の花火見学を機に、鉄砲衆に花火の研究を奨励
   したという話から。
A 慶長17年(1612年)の足助八幡社に奉納された「扇的打図」、
   鉄砲の的図と思われますが、奉納者に「尾州稲留流先生当  
   国岩神村沢田四郎右衛門尉行年78歳」とあり、砲術家稲富
   一夢の弟子がこの頃此処に既に存在したという事実と、その
   後近隣の下山村、松平郷、奥殿、細川と稲留(稲富)流煙火師
   が実名として伝承されて来ています。
B 応仁の乱にさかのぼり、
   岡崎市細川町を地元とする細川成之候が駆使したという火薬
   兵器の技術からと、いろいろ考えられます、成之は応仁の乱以
   後も松平家と共に額田で一揆鎮圧などの戦をしています。
C 武田流火術の流れ
   家康が甲斐武田家を探る為、成瀬正一という武士を送る、後に
   この武士が徳川鉄砲隊長の一人として活躍、これが現在西三
   河玩具花火業者に多い武田流煙火の流れとも云われています。
D 荻野流火術の流れ
   砲術荻野流は稲留流よりかなり後発の流派ですが、稲留流は
   愛知県各藩の指定砲術としては尾張藩・吉田藩くらいで、多くは
   荻野流が岡崎藩・挙母藩・西尾藩・刈谷藩などに普及していま
   した。後年の中根泰蔵は荻野流免許皆伝でありましたが、花火
   は稲留流も学んで、一光流を興しています。

@駿府城の花火見学
慶長18年(1613年)8月6日、イギリス国王ジェームス1世の貿易の為の国書を携えた公使ジョン・セーリスが駿府城の家康に謁見、其の時同行した唐人より花火を揚げさせたと「宮中秘策」「駿府政事録」等にあり、大御所殿、宰相殿、中将殿、少将殿御見物とあります。この日謁見したことはイギリス側の公文書にも残っているとの事で、確実な記録とされています。二の丸の立花火と記載されていますから、噴出花火であったろうと言われています。
大御所とは勿論家康公、宰相とは徳川義直公(9男・初代尾張藩主)、中将とは徳川頼宣公(10男・初代紀州藩主)、少将とは徳川頼房公(11男・初代水戸藩主)、そして家康警護の三河鉄砲隊も居たでありましょうし、稲富一夢は尾張より家康に呼ばれた後、慶長16年(1611年)に、ここ駿府で死去していますが、この間、家康を弟子として鉄砲を教えたとの事で、当然鉄砲隊にも師匠として稲留流火術を教えていた。家康は大の鉄砲好きで花火にも興味を持ったとみえ、火術家・鉄砲隊に早速花火の研究を命じたようです。
そして元和2年(1616年)家康死去とともに警護の役を解かれた三河鉄砲隊の若衆は松平郷を始め地元に帰って、この花火を村祭り等で披露したと想像される。幼少で駿府の家康の元に置かれていた、義直公・頼房公等も、それぞれ尾張・水戸などへ戻る。3代目将軍家光は元和9年(1623年)花火を奨励慶安元年(1648年)以降江戸では、すでに度々花火禁止令が出るほどですから、これを機に公式に花火が奨励され広まっていく事になったようです。
これ以前にも、オランダ人・ポルトガル人が花火を天覧に供した例は多くありますが、この駿府での確実な記録とその後の影響力からも日本の花火史上にとって重要な出来事でありました。

A足助の沢田四郎右衛門よりの伝承
西三河では稲留流がよく出て来ます、稲富一夢(直家)に関しましては又別ページで紹介してみたいと思いますが、この一夢氏は火術家であっても花火を作り直接指導したという記録は不明です、足助町は足助祭りとして現在も火縄銃の演技が行われるほど鉄砲の歴史を感じさせる町で、沢田氏も稲留流鉄砲火術の伝承者であり、稲留流煙火の元祖といわれています。その後、下山村の大幡氏より稲留流の伝授を受けた奥殿の鶴田民蔵・加藤滝蔵などが改良を重ね、熊野流という一派を興す、時に1820年頃(文政年間)頃である。その後も中根泰蔵の一光流、細川の長坂専次郎の専海流僧信道の良光流加藤小兵の最明流と稲留流は江戸末期から現在に至るまでに大きく普及していったようです。
稲留流は吉田藩の正式砲術にも採用されていますから、東三河も関連があると思われますが、不明です。

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尾張・西三河地方で(江戸年間)記録に残る年代としましては

明和 7年(1770年)新任岡崎城主水野候より「花火など無用のこと」と禁止された。
寛政 9年(1797年)西尾市・米津神社の奉納煙火で手筒・大筒・打上・棚花火の記録がある
文化 6年(1809年)岡崎大矢川原(菅生川)で花火打ち揚げる。
文化13年(1816年)岡崎福島(現板屋町・菅生川)で花火打ち上げ。
文政 3年(1820年)岡崎奥殿に熊野流興る、この頃細川町でも長坂専次郎の専海流興る
文政 5年(1822年)岡崎・菅生天王祭で金魚花火はじまる、花火はこれ以前から
文政10年(1827年)尾張知多郡武豊町・大足蛇祭はじまる。
天保15年(1844年)尾張名所図会に清洲の花火紹介「稲沢・立部神社こがしまつり
弘化元年(1844年)幸田町・萩の立物始まる


この菅生川原でこれ以外も度々行われていますが、これらは奉納煙火では無く、各地からの有志が集まっての腕自慢の打ち上げが主であったようです、多数の観衆が集まったようですので、花火大会のはしりと云えるかも知れません。この頃には従来の仕掛け等の庭花火から木筒を使った打上げ花火が登場してきている。立物は1780〜1800年もしくは、それ以前に登場といわれて、奥殿・細川・大平・大西などで特に発展。。西三河では特に「流星」(矢ともいわれる)が大流行、矢がけの櫓8間・矢竿10間・矢羽根3間、矢がけの櫓には船の帆柱を利用して、矢羽根に傘100本をとりつけ、この矢ぐらに登って筒口に点火した。これ等流星は落下する矢が危険という事で、明治初期に廃止され三河では見られなくなったのが残念です。幸田町では坂崎の梵天・大草のからかさ・萩の立て物・須美の流星など各地で特技を自慢した。
昼花火も盛んで、袋物で岡崎日名の鯉、碧海福釜の人形、などの曲物もさまざまなものが出た、珍しいのは鳩を入れ打ちあげて上空で割って飛ばしたというものあったようです。果たして轟音と熱で大丈夫だったかなと気になっていました、気絶して落ちてくるもの、焼き鳥になって落ちてこなかったのでしょうか。調べてみると、やはり隔壁は工夫し、鳩の耳にビンツケ油を詰め、空中で大方は無事炸裂して、金紙・銀紙に彩られて無事飛び立ったようです・・・拍手!、とはいえやはり時には鳩が黒こげとなって落ちてきたそうです・・・合掌!・・・。

<写真は乙川(旧・菅生川・又は大矢川)に立てられている煙火打上銅像です、5号昇分火付昇り3段というところですか。>


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岡崎観光夏まつり花火大会

もともとは菅生神社の祭りで、戦後(昭和23年8月16日)市民祭りと合同開催が始まる。菅生神社は歴史は古く、神社史に曰く「日本武尊東征の時、高石にて矢を作り、一矢を吹き流し、その矢を以て伊勢大神を奉祀。その後、神亀2年(724年)山城国より稲荷大明神を観請。永正14年(1517年)額田郡宮崎も牛頭天王が菅生川洪水の為、高石の地に流着し、翌15年社殿を造営する。歴代岡崎城主の崇敬篤く、幾度かの寄進があった。例祭で行われる花火は全国的に有名です。」との事で明治以前は「菅生天王宮」と称して、祭りは天王祭と呼ばれていました、花火開始時期がはっきりしませんが、花火禁止令の1770年以前から菅生川原では煙火を揚げていたと思われます文政5年(1822年)には天王祭に金魚花火が登場している。
現在も8月第一土曜日に花火数20000発の愛知県最大の花火大会として開催されています。詳しくは過去観覧記録をご覧下さい。三河煙火業者勢揃いでの打上げ花火は勿論、三河伝統の金魚花火・火車・様々な枠仕掛け・手筒・大筒(大のし)・乱玉と盛りだくさんです。
現在の岡崎観光夏まつり
昭和39年(1964年)の記録を調べてみますと、当時は8号5玉の全国コンクールがあって、多くの三重芯変化菊が揚っていたのには驚きです。
紅屋青木煙火店・青木多門(8号昇曲付三重芯変化菊)
大同火工煙火店(茨城)今関由巳(8号昇り雄花八重芯変化牡丹)
築北火工(茨城)堀込昇一郎(8号昇曲付三重芯変化菊)
石原火工品製造所(大阪)石原一良(8号昇曲付三重芯変化菊)
信州煙火工業・藤原貴右(8号昇付真菊大輪咲)
伊那火工・山田義吉(8号五輪浮模様)
秋田火工製作所(秋田)佐々木福蔵(8号昇曲付輪中のダリア)  〜〜他全11社

昭和42年(1967年)には太陽堂田村煙火店・田村藤茂(8号昇り曲導付八重芯変化菊)、昭和44年では青木多門(8号八重雌雄芯変化菊)、昭和火工(茨城)・武藤輝彦(8号昇曲導付八重芯変化菊)〜〜昭和46年にはコンクールは10号3玉になり、ここでも青木多門氏がずっと常連として参加されています、この頃どんな花火が揚ったのでしょうね、写真は撮れる環境でしたが、当時は残念ながら花火玉までの関心はありませんでした、惜しかったですね。


幸田町の煙火師・僧信道物語

文政9年(1826年)に亡くなられた江戸期の花火師「仰空信道和尚」の物語です。<引用・幸田町史・三河花火史
信道和尚は幸田町須美如意寺の住職で、出身は碧海郡小川村(現在の安城市桜井)で、花火研究の為、資産を失い浄土宗の僧となったが、花火の魅力から抜けきれず、従来の稲留流に独特の創意を加え、打上げ煙火を稲留流、仕掛け花火を良光流と号した。
「三河煙火史」での「登坂村史」>によれば、<信道和尚は三河花火に大きな功績を残したが、先祖伝来の家がいよいよ人手に渡るとき、「これが見納めなれば、この屋敷にて別れの煙火を上げたい」と申し入れ、「若しそのため火災にあうことがあれば、何とするぞ」という人々に「その時は2倍の値をもって償なわん」といい、居並ぶ人々の面前で、煙火の筒に火を投じた。煙火は天井下僅か一寸のところにて、ものの見事に開花した。この時の径は一寸、丈は5〜6寸であったらしく、打上げ筒は明治初年までは寺に保存されていたようです。(室内打上げの最初で最後?)
また信道和尚は流星の技にたけ、かって須美神社の奉納煙火に唐傘50本を持たせた大型流星を打ちあげた。その流星は見事に上昇して50本の傘を青空に放った。その傘は土井・赤渋に落下し、中には矢作川を越したものもあった、此の時露天のソバ屋の前でソバを食べている男の頭上に流星の矢が落ちて即死するという事故があった、
ソバ屋の傍らに、誰が書いたか「如意寺から衆生済度の矢の使い、そばをはなれて参るお浄土」と落書が立てられたと伝えられている。
また、古老伝によれば江戸両国の川開きに煙火を江戸に送って三河煙火の名声を博したとも伝えられる、座敷花火も考案してこれも江戸へ送り、大名屋敷や料亭に送ったのが流行したともある、〜 >



岡崎市内及び周辺地域の古い煙火祭り(煙火開始時期不明)としては

中町岡崎天満宮祭礼」通称伝馬天神と呼ばれ花火祭りとして岡崎中から見物に来た、花火長持を担ぎ、
  木ヤリ歌を歌い、花火は3寸玉を各町15発程度、夜は手筒花火をした。記録としては明治23年がある。
大平町八幡神社祭礼」大正期までは花火があった。
松平東照宮・権現まつりー手筒」、古くから花火祭りが盛ん。
能見神明宮大祭」現在も山車(屋台)と手筒花火が奉納される。
矢作神社祭礼」現在2台の本格山車は岡崎市内では此処だけ、花火の時期不明。
細川古村積神社大祭」、「山中八幡宮大祭」など多くの花火が出た祭りがありますが創始時期がはっきりしません。
豊田・挙母祭り」8台の山車祭りで有名ですが、祭りの起源は古く(約350年前)、煙火が出されるようになったのは明治2年(1869年)、手作り煙火を長持ちに入れ景気よく会場に練り込んだ。

どちらかといえば氏神様を中心とした小さい村祭りが多く、各地の「天王さん」でも多くは花火を出し、秋葉祭り、地蔵盆でも各地で花火が出ています、本宿・舞木・羽栗町あたりでは竿灯祭りでも花火が出た。古来三河の祭礼では花火を出さない方が珍しいと言われ、大きい祭りとなると各村が各自手作り花火を持ち寄る事もあり、必然的に競争心が起きた。

祭りにおける村落は行政上の村ではなく、大字(すなわちムラ)が中心で、そこにはほとんど先祖神や土着の氏神様とかの鎮守たる神社があって、ムラの住民を氏子として氏神様を中心に祭りが行われて来た、ムラはさらに「キレ(切)」または「屋敷」に分れ、運営は各キレからの代表と神徒総代が中心に行われた、場所によってはキレがさらに組に分かれたり、キレが集まって組を作るケースも。祭り費用は裕福な町衆のいない村落は厳しく、裏山のマツタケの権利をムラが取得して費用に当てたり、神社の宮山をあてにしたり、少し大きい神社になると神宮寺などと呼ばれる別当寺(神社内に同居して神社の運営や祭事を行う寺)からの援助等もあった。この氏神信仰は明治初期の神仏判然令や一村一社令で混乱する事になる、多くの氏神は廃止されたり近くの神社へ合祀させられ別当寺は廃止された、キレによってはそれでは困るとの住民により新たに小社や祠(ほこら)を作ったりして氏神様を祭った村もあった。
当時(江戸期)は勿論花火作りに許可は必要なく、当初は士族が先生となって指導や火薬の手当てをしたようですが、その後は全く素人だけでの手作り花火が主体で、村やキレを一つの単位として畑の真ん中に花火小屋を建てて、好きな者が集まって作った、しかし仕法帳は厳重に管理され、長男以外は参加出来ず秘密の流出に気を配り、各村が奉納祭りで技を競い合った。明治初期の頃は花火の製造にかかるものは村長の許可を必要とし、誓約書に血判をした上でとの記録もある、火薬は指導者からの供給や自分等で寺の床下から採ったり、岡崎市史には鼠の糞からという記録もある。
花火による負傷は名誉と思われたようですが、事故が多いので、明治後半には許可制となって、地区警察署へ願いを出すようになった。


尾張地方の江戸期の花火

東西三河は主に「花火は天王まつりの試楽なり」といわれたほど、天王まつり・祇園祭での厄除け煙火奉納が主体で発展しましたが、尾張での天王まつりは京都の祇園祭りの山鉾から発展したといわれる山車まつりが現在も主体となっています、花火はまだ未調査であまり古い記録は少ないですが、「尾張名所図会」に掲載されている文化文政期の清洲の花火」は現在の「稲沢市立部神社のこがし祭り」の事のようで、立部神社は明治以前は「牛頭天王社」で昔は「まきわら舟」を浮かべた川祭りであったが、五条川の改修により、現在は2台の山車をまきわら舟風に提灯で飾っての祭りとなっています。
記録の残る珍しいところでは、知多武豊町の「豊石神社の大足蛇車祭」で、大足村の村祭りとして文政10年(1827年)頃から、蛇の口花火で、蛇車と呼ばれる山車の上から2本の花火が噴出した、外にも現在は手筒・大筒・滝・乱玉・仕掛けと9.00頃まで続く、花火は珍しく「伊賀進開流による打上花火」であったと記載され、一時中断の後、昭和52年に再開されて、現在は「蛇の口煙火保存会」が発足し、昔は村の氏子による手作り煙火であったという。この伊賀とは岡崎の伊賀でしょうか、不明です。

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